ストリンガーになった動機 その3

ずいぶん前に「続きます」と書いておいて
伸び伸びになっていた、澁谷の自叙伝である
ストリンガー遍歴です。
実はコーチをしていた萩山テニスコートも
ストリンガーデビューした西武スポーツ
吉祥寺も今ではなくなってしまっています。
諸行無常です。
しかしそこで学んだことや経験は澁谷の
血となり肉となっています。
人生の指針となっているといっても
過言ではありません。
お金をいただいて仕事をする、という
プロである意識はここで養われたのです。
プロ意識とそれを実現するスタイルが
定まったきっかけは、コーチ時代に
ありました。
萩山TC以外にもあちこちでコーチを
しましたが、通常はレッスンする際に
コーチ用のマニュアルがありました。
どのコーチも同じフォームを教え、
同じようなプレーをすることを目指して
いた時代なので、当然萩山にもあるかと
思っていたら…マニュアルないんです。
もともと、競技テニス経験者か指導者
の資格があるプレーヤーしかコーチとして
採用しないスクールだったのです。
学生バイトコーチながら、全日本級や
インカレは当たり前で関東学生レベルは
ゴロゴロ。いや、スゴい面子だぁ〜。
そんなですから、それぞれフォームやリズム、
プレースタイルはさまざまで、指導方法は
ある程度コーチ裁量にまかされていました。
先輩コーチの教え方を盗んだり、自分で
勉強したり、他で検証して教えていました。
たまに校長先生やヘッドコーチが判断して
問題がある指導法の場合だけ、その場で
訂正やフォローが入ることがあります。
澁谷も一度ありましたが冷や汗もんです。
このスクールでは、教える生徒さんでは
なく、自分の顧客であると認識しました。
顧客を満足させるにはどうしたらいいかを
考えて、相手によって「楽しませる」のか
「上達させる」のか「挑戦させる」のか。
求めるものが違うので、繰り出すショット
指導スタイルも変わります。
スクールでストリンギングするときにも
同じように「人によって変える」ことが
重要なポイントでした。
なるべくその人に合うようにするには
どうしたらいいか。
自分のラケットに色々な張り方をして
みて、これはあの人に合いそうだなと
日々、研究していたのです。
大学卒業とともにプロストリンガーと
してデビュー、に続きます。

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